ねこ(隊長作)

マーラー  交響曲第10番   - 16 -  (2004年7月)
   訪問者数 マーラー  交響曲第10番(バルシャイ補筆完成版)
  バルシャイ補筆完成版
  
  バルシャイ指揮  ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー
  (ブリリアント 92205 )輸入盤

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  【 原典版と改訂・補筆版(1) 】
  
  弊誌メルマガ当初の構想に反して、CD紹介が滅法少ないのを反省し、
  オリジナル稿(原典)版や改訂・補筆版の名盤を特集してみたいと思う。
  
  先日のベートーヴェンの「合唱幻想曲」と「第九」の関係を並べて聴いてみて、
  他の交響曲でもこういったオリジナル稿の面白さや、改訂・補筆版
  の秀逸さってあるよなぁ、と思った。
  
  オリジナルか改訂か、これはその人の性格にも拠るのだろうが、私は面白い事が
  何にも増してしまう為、周囲の圧力に負けて改訂・改悪されたものには冷たいし、
  弟子や後継者が努力して補筆した作品は飽くまで未完ではありながら、
  そこに愛(いと)おしさを感じてしまう。
  
  また、折角の作品も演奏如何でどうにでも転がってしまうのが現実で、
  優れた作品かつ演奏のマッチングが難しい。
  このシリーズ?では、この希有な出会いをご紹介できればと思い、頑張ってみます。
  久々に反論・異論が出てきそうで、私も楽しみながらご紹介してゆこうと
  思ってますので、皆さんも振るってご意見下されば嬉しゅうございます。
  
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  半年ほど前、発表されて大いに話題となったバルシャイ補筆完成版。
  バルシャイはショスタコーヴィチの弟子といったイメージが強く、   たこ(隊長作)

ショスタコの弦楽四重奏のオーケストレィションがかなり有名。
  私はマーラーの第9番が大好きだが、それだけに彼のその後の
  足跡にも非常な興味を持っている。
  ベートーヴェンにしろブルックナーにしろ、あれだけ立派な「第九」を書いたら、
  さぞかし「第十」は素晴らしかったんじゃなかろうか、と想像するのが人情と云うもの。
  
  ところがブルックナーは第9番を作曲途中で死んじまうし、
  ベートーヴェンの「第十」スケッチは随分期待はずれだった記憶がある。   コロッケ(隊長作)

その点、面白いのがマーラーだ。
  「第10番」をどこまで認めるかは意見の分かれるところだが、
  第1楽章「アダージョ」は多くの指揮者のツィクルスに組み込まれている。
  第1楽章は正真正銘、マーラーとして認められている訳だ。
  
  問題は補筆完成版、これが「オモロイ」
  神経質な天才がこの現状を知ったらさぞかし愉快な事が巻き起こるだろう
  が、色んな人間が色んな思惑からこの「未完成」を「完成」させている。
  
  有名どころでは「クック版」。
  最も多くの盤によって流布されている補筆版の原典的存在。
  私もザンデルリンクや2種のラトル盤を持っているが、いたって詰まらない。
  特にラトルの旧盤(ボーンマス響)は酷いモノで、これが私のファースト・インプレッション
  だったから、長い間マラ10そのものが大したものじゃない錯覚を抱いていた。
  
  ラトルは現在BPOを従えて飛ぶ鳥を落す勢いだが、
  歴史的には彼の名は消えていく運命にあると予言する。
  ラトルがバーミンガム市響と話題になっていた頃は微笑ましく思い
  CDも買っていたが、あんまり感銘を受けなかった。
  それがどういう経緯があるのかBPOに修(おさ)まり、
  次から次へと平凡が生み出されている。
  BPOと録り直した2度目のマラ10を聴いてみて、天下の茶器が松永弾正に
  所持されているのに等しい不幸を感じた。
  
  他にはスラットキンのマゼッティ版やNAXOSのフィーラー版も
  聴いてみたが、所々感心した程度なのが正直な感想だった。
  
  ようやく本題のバルシャイ版なのだが、これは一重に演奏が出色な出来。
  
  バルシャイがこんなに歌う指揮者だったとは知らなかったし、バルシャイも
  年齢を重ねて自ら補筆完成した自信作を手中の珠のように変幻自在と操っている。

  多くの人が指摘したように、打楽器群のケバケバしさは認めるが、第九の枯淡を
  踏み越えた作品を意識し過ぎるからで、ここまで騒がしい打楽器使用も
  マーラーには絶対ありえなかったとは言い切れまい。
  
  逆にこういった打楽器の使い方が終楽章の大き過ぎる
  「轟音のような」大太鼓の地獄の響きを正当化させている。
  そしてその轟音の終わりから立ち昇る弦楽器のなんと美しい香りよ。
  この対称的とも取れる効果は、正にマーラーの真骨頂であり、
  よくぞ見い出したものだ、と唸らずにはいられない。
  
  マーラーの十番は、現世との別れ(第1楽章)から様々な阿鼻叫喚を経て、
  終楽章で光と真実の終末を感じる音楽だと思うのだが、この終楽章の
  長大なコーダを「歌い上げる」点が、これまでどの演奏も弱かった。
  弦と弦が絹のように織り成す美しい綾、二条の織り成す滑らかな流れ、
  上流の小川が白く煙っている眺め、この演奏からはそんなとりとめの無い
  幽玄の世界が顕れてくる。
  
  これからもマーラーは愛され続けるほど、第10番補筆完成盤もリリースされるだろうが、
  このバルシャイ盤はひとつの頂点を究めた演奏だと断言したい。
  
  そんなバルシャイ版が11月27日、群響によって高崎で実演が聴けますね。
  恐ろしい音楽センターですが、一生に一度のチャンスだと思う方は
  高崎まで頑張って行ってみましょう。
  
  11月27日 群響の感想 ⇒ http://rede200402.hp.infoseek.co.jp/dai4/dai62.html

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