(隊長作)

ベートーヴェン   ミサ・ソレムニス    - 32 -  (2006年6月)    訪問者数

シベリウス 交響曲第3番


  ギーレン指揮  ルクセンブルク・フィル
      エウロパ・コール・アカデミー 他  

    ( CAPRICCIO 67 171 )   輸入盤  (DVD付)
    2005年11月20日録音

  cocococococococococococococococococococococococococococococococococococococo

  我々は、本物を知らぬまま、年を重ねていく。
  知らぬが仏とは良くいったもので、知らないほうが幸せなコトが多い。
  この「クラシック」というヤツもご多聞に漏れず、知らずに過ごしている
  人々がなんと長閑(のどか)に見えることか。
  禁断の果実を味わったが最期、もっともっと旨いものを!と
  死ぬまで音楽の亡者になっていってしまう。
  それがまた堪んないわけで、問題は「本物」を見つけ出すこと。
  
  今回のように、失禁してしまいそうな名盤を知ってしまうと、
  世の中全体の不合理さにアタマに来てしまう。
  何が不合理かというと、何故こんな名盤が話題になっていなかっつうこと。
  
  このCDは、何気なく棚に並べられた一枚だった。
  世紀の大名演奏盤だと、全世界が強振するほどの大椿事なのに。
  
  いま、現役の指揮者、マエストロ達と云えば、
  どなたが尊び崇められているのだろう?
  日本ならオザワセイジ。アサヒナ亡き後、これは如何ともしがたい。
  世界を見れば、ラトル?、最近必死に売り出したがっているヤンソンス?
  でも、これらの誰も、歴史に残るマエストロとしては、残らないだろう。
  
  なのに、ほとんどの人々は、これこそ芸術、彼らこそ天才と、
  日々惜しげも無くカネを貢いでいる。   (隊長作)

はぁ〜、どうなってんだ。
  一体全体、どうしてこんな馬鹿げた現象がいつまでも続いてんだ?!
  
  少なくとも、数十年前までは、ギリギリの線でまともだった。
  バーンスタインとカラヤン。
  ムラヴィンスキーにチェリビダッケ。
  クライバーやヴァント。
  そうそう、ケーゲルやシェルヘンも忘れてはいけない。
  とにかく、本物がいた。
  その前にも、誰を挙げたらいいのか迷ってしまうほど、本物の凄い奴等がいた。
  それがどうだ、今の有り様は。
  
  欧州まで渡ってナマで聴きたいと思うのは、今回のギーレン、
  コリン・デイヴィス、サロネンくらいか。
  あと、ロジェヴェンがBBCを振ったり、セーゲルスタムがベートーヴェン
  交響曲全曲演奏会をやってる時くらいか。
  そうそう、岩城宏之が大晦日にベートーヴェン全曲演奏会をやって話題に
  なっていたが(私も数年前に行ったが...)、海外ではその前から
  セーゲルスタムがやってたのよね。
  いっそのことマーラー全曲演奏会くらいを誰かやらんだろうか?
  
  そんな現代の中で、私が本物だと認めるマエストロは一体どれほどいるのか。
  そして、彼らは残念ながら保守本流にいるとは言えない。
  芸術にアクが強すぎると、万人ウケはしない。
  しかし商業主義者からすれば、芸術よりも「より多く売れる人」
  「より利益に貢献する人」
こそがマエストロなのだ。
  そしてそういったカネを運んでくれるスターを、一般大衆にマエストロと
  幻惑させ、カネを奪い取っている。
  
  騙され続けるのはその人の勝手だが、今回の盤のように、ここまで
  凄過ぎるCDが世に埋もれているのは、全く如何ともしがたい。
  私はどうすればいいのか?   (隊長作)

どこへこの憤懣やるかたない気持ちをぶつけたらいいのか。
  
  このCDを手に取ったのは、ひとえに昨年、ドイツ・ベルリンで同じ布陣で
  この演奏を聴き、これは何が何でも買わねばならん、と思ったから。
  そして、買って聴いてみて、これは凄過ぎた。
  あの日の爆演を更に上回っているのが癪になるくらい、素晴らし過ぎる。
  
  この盤はルクセンブルクで収録(05年11月20日)されたようで、
  私が聴いた演奏(05年11月14日)そのものではないが、互角の演奏模様を
  クリアに収録している。
  
  私の聴いたギーレン・ソレムニス演奏会 1
  http://rede200402.hp.infoseek.co.jp/dai6/dai102.html

  私の聴いたギーレン・ソレムニス演奏会 2
  http://rede200402.hp.infoseek.co.jp/dai6/dai103.html
  
  ベートーヴェンのソレムニスは、人間を真っ裸にしたような音楽だと思う。
  この作品の後、彼は「第九」を完成するわけですが、
  あの曲で完全に雲を突き抜けていく。
  悟りの境地のような天からの音の世界に達している。
  しかしこのソレムニスは地から天へと飽くなき渇望と欲望の絶叫がのたうち回っている。
  それなのに、今までの多くの指揮者はこの楽曲の真髄を見損なっていた。
  
  ベートーヴェン最末期の宗教曲に、のた打ち回るような下品さはオカシイと解釈してきたのだ。
  たしかに、ソレムニスも多くの美しい天国的な調べが溢れている。
  そういった箇所はそりゃそれでいいし、ギーレンだってそう演奏している。
  
  しかし問題は、多くの我々人間の悲しみや苦しみ、不満や怒りや絶望まで
  美化する必要は無いのだ。
  それをベートーヴェンは見事に音楽に顕わしている、
  醜いものは醜いがままに!
  
  スウェーデン放送合唱団がベルリン・フィルとよく組んで、その圧倒的な
  歌声に世界中が賞賛しているが、エウロパ・コール・アカデミーもまだまだ
  無名ながら、物凄いパワー溢れる合唱だ。
  オケもこれがベルリン・フィルやウィーン・フィルだったら、と空想する
  人がいるかもしれないが、それではこれほどの演奏は出来なかっただろう。
  
  ギーレンという親爺を棟梁に、究極のソレムニスを自分たちの手でやってやろうと、
  全員の意志ががっちり組み上がったからこそ成せた演奏なのだ。
  ギーレン何するものぞ、といったナナメに構えている名門オケでは、
  これほどの全身全霊の演奏はありえなかっただろう。
  
  ギーレンの絶唱は、とにかく真情そのもので迫ってくる。
  彼は永い間、冷血音楽とか現代音楽好きの冷淡音楽とか思われてきたようだが、
  どうして世の批評家はそうレッテルを貼りたがるのか。
  私だってメータが歳をとるほど凡人になってゆくのが歯がゆいし、
  ベルリン・フィルを捨てたアバドが日に日に仙人のような世界に
  到達してゆくのを微笑ましく眺めている。
  人は老年になると大きく変るものなのだ。
  そして、見事、ギーレンは大化けしている。


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