(隊長作)

10月7日(土)  18:00   - 128 -    訪問者数

    松岡究指揮   成城管弦楽団  大田区民ホール・アプリコ

    ロッシーニ      歌劇「どろうぼうかささぎ」序曲
    リスト        交響詩「前奏曲」
    ショスタコーヴィチ  交響曲第5番

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  大田区民ホール・アプリコ
松岡究。
究と書いて「はかる」と読む。
我々はブログもやっているので、
彼のクラシック系ブログ「キューちゃん通信」
の存在は知っていた。

憧れの「ベルリン・コンサート・オペラ便り」を
主軸としているブログでして、
  何と云っても執筆者が(無名とはいえ)プロの指揮者なんだから、
  そんなブログがあること自体貴重だ。
  
  ブログ「キューちゃん通信」
  http://qchan-dirigent.cocolog-nifty.com/blog/
  
  そんな指揮者も、所詮ブログでの関係に過ぎんと思っていたのだが、
  成城管弦楽団のコンサートに行って見てビックリ。
  どこかで見た名前だな、と思っていたらハッと気付いた。   (隊長作)

松岡究とは、あの「キューちゃん」ではないか!
  しかも「キュー」でもなく「きわむ」でもなく、「はかる」と読む。
  美少年キャラのような名前ではないか!
  
  まぁ、みなさんもキューちゃんのブログをご覧になると
  感ずることでしょうが、かなり若々しい雰囲気の世界だ。
  実物のキューちゃんとは、どんな人なのか♪
  久々にコンサート前に、指揮者の容貌にワクワクしてしまった。
  
  指揮台に現れたキューちゃんは!!!...。
  
  昨今の指揮者は圧倒的にルックスが大きい。
  ムーティ、バレンボイム、アバドなどはその代表格だし、最近なら
  ティルソン=トーマスのナルシストたっぷりのCDジャケットは
  苦笑してしまうし、いつまでたっても童顔のサロネンはかわいい。
  往年の大スター、カラヤンとバーンスタインも格好良かった。
  
  しかし!
  私はルックスというハンディを跳ね返して頑張っている人が好きだ。   (隊長作)

例えば、アーノンクール。あの悪人面と云ったら。
  悪人面で負けてないのが、マゼール。
  ここまでアクが強いと、かえって演奏に期待してしまうが、昔のマゼール
  はアクが強かったが、最近は平凡な演奏が多いと感ず。
  彼は作曲家に残りの貴重な日々を投入したほうが、意義が遥かに大きい
  のではないだろうか。
  
  さて、ブログのキューちゃんの棒でロッシーニが始まった。
  ちなみに私はロッシーニが大好きだ。
  うちの隊長が持っていたロッシーニのオペラ「チェネレントラ」のLDが傑作で、
  アバド盤なんだが、これほど視覚的にも音楽的にも面白いオペラは少ない。
  今年はモーツァルトのオペラが大流行りだが、ロッシーニのオペラ、
  しかもアバド盤の「チェネレントラ」(シンデレラのことネ)が最高だと憶えといて欲しい。   (隊長作)

そんなロッシーニなんだが、これは難しい。
  聴き進むに従って、どうしてこのオケがこれほど難しいロッシーニを
  採り上げたのか不思議になるのだが、恐らくオペラに強いキューちゃんの意向が
  強く関わったのではないだろうか?
  ロッシーニは大好きだし、あまり演奏されないだけに嬉しいのだが、
  さらりとやる前プロでは無いだろう。
  上手くやらないと、聴く方は大変だ。
  
  中プロの「レプレ」も然り。
  一部格好良い旋律があるが、所詮は作曲の才の乏しいリスト。
  彼の楽曲は相当巧みに弾かないと聴くに耐えない。
  作曲家にこそ原因が大きいとはいえ、リストは相当面白く演奏しないと
  ツマラナイどころかクダラナイ曲に聴こえてしまう。
  大田区民ホール・アプリコ
メインのショスタコを聴いて、
ようやく今日の前中プロの惨憺たる原因が
解る。

よくあるように、メインに練習を絞ってしまうがゆえに、
前中プロの練習が疎かになり、
しかも疎かにできない曲だったのに侮っていた故に
悲惨になってしまっていた。

  そんなことはよくある事だが、よくあるだけに何とかならないだろうか。
  
  いっそ前菜的な前プロなんか無くしてしまって、少し大きめな管弦楽曲や
  小さな交響曲あたりを前プロにして、二曲プログラムにした方が練習も
  偏らなくて良いのではないか?
  
  ショスタコもすっかり人口に膾炙された曲なだけに言いたいことは多々
  あるが、第三楽章の大きくて哀しみの溢れ出す演奏はなかなか良かった。
  第二楽章のキビキビさも出ていたが、荒々しさやドキツサは無かった。   (隊長作)

成城の人達にはそんなものは求めてないのかもしれない。
  
  残念なことは終楽章。
  ここのテンポ設定や音運び指揮者の思想や想いが
  如実に顕れると思うのだが、至ってオーソドックス。フツーとも云える。
  見掛け倒しや大袈裟なだけなもの、奇抜で大胆なこと良いと
  言っているのではない。
  しかし、ショスタコの第5番最終楽章は、何らかのメッセージが
  込められている音楽であり、それをどう指揮者や演奏家が受け止めているのか、
  聴衆は楽しみにしている。
  果たしてあの演奏には、どのようなメッセージが込められていたのか。
  私の拙い感受性では、多くを拾い得なかった。
  
  
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