梅の花(隊長作)

ショスタコーヴィチ  交響曲第7番「レニングラード」   - 21 -  (2004年9月)
   訪問者数 ショスタコーヴィチ  交響曲第7番「レニングラード」


  ヤンソンス指揮 レニングラード・フィル
  (EMI CDC 7494942)(輸入盤)

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  【 嗚呼、高校三年生♪ 】
  
  人にはそれぞれ大切な想い出があるけれど、
  その想い出に合わせて音楽が伴なっている事もあるよね。
  私は高校一年からクラシックを聴きまくった口なんですが、
  大事な受験期に嵌ってたのがショスタコーヴィチでした。
  高一はモーツァルト中心、高二はマーラーと、
  一人の作曲家に徹底してこだわって聴く傾向があった。
  そんな私の高校三年生は、ショスタコでした。
  
  先月、東北方面へ独りブラリ旅をしてみたんですが、
  その流れの途次、新潟へ行ってみようと思いついた。
  思いつきばったりの旅。
  新潟は、私が高三の冬に受けた大学があった街でした。
  今時の高校生は独りであっちこっち丁稚だろうが、当時の私は旅行慣れもしていず、
  独り受験のために新潟まで訪れることは、大変な冒険だった。
  
  それまで太平洋側の土地ばかりで、考える迄も無く日本海を見たのも、
  このときが初めてだった。
  それだけ、この街には哀愁があり、どこまでもどんよりと白い空が懐かしかった。
  もしも上手くいっていたら、この街に暮らし、
  今もこの街で働いていた自分があったのかもしれない。
  そんな事を考えると時間はどんどん過ぎていく。
  たこ(隊長作)

この頃に聴いていた音楽は、やはりショスタコ。
国公立大学の受験は、当時2〜3校受験でき、その内の一つが
  新潟だったが、このとき聴きこんでいたのがショスタコーヴィチの交響曲第7番だった。
  「レニングラード」と呼ばれているこの戦争音楽は、
  北の厳しさと切なさを醸しだしていて、なんとなく新潟としっくりきた。
  新潟の人にしてみれば、「なんで一緒なわけ?」と思われるだろうが、
  私にとってのタコ7は新潟なのです。
  
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  「三つ子の魂、百までも」とは良く言ったもので、私にとってのタコ7はヤンソンス盤です。
  今のヤンソンスが、大したこと無い事は分かった上です。
  でも、当時、真っ白な心で聴き込んでしまった演奏が、
  この盤なものですから、今でもタコ7と云えばこれになってしまう。
  皆さんにも、そういう盤はあるでしょ?
  
  私にとって、この曲の聴き所・好きな所は、もう切なくなるほど美しい弦の啼き。
  それとフルートを中心とした木管の自由自在の羽ばたきです。
  かなり前、シュワルツェネッガー氏が「チィチーン・ブイブイ」と歌って
  この楽曲を冒涜したボレロ形式の主題より本曲は戦闘開始となるんですが、
  本当の素晴らしさは第一楽章のクライマックスを過ぎた頃から始まります。
  
  通常の交響曲の醍醐味は、やはり何と云っても堂々とした第一主題の斉奏でしょう。
  本曲も戦争交響曲だけあって、果敢で闘争的なテーマと
  圧倒的な物量作戦よろしく、音楽は燦然と鳴り響きます。
  しかし、ショスタコを持ち上げ過ぎかもしれませんが、
  この曲は動より静、明より暗に美学の重きを担わせています。
  これは戦争を実地で体験した作曲家だからこそ、戦争の真実を見据えているのであり、
  戦争の本質を権力者からは気づかれ難いように、上手く書き上げている。
  
  戦争では、戦闘機や戦車が華々しく進撃し、格好いい軍服をまとった将校が颯爽としています。
  しかし彼らは名も無く罪も無い人々を殺しているのであって、平和な時代ではあれほど
  問題とされる「殺人」こそが、彼等の職業でもあり成果でもあるのです。
  国民を守るという、名のもとに。
  
  何もかもを殺し、燃やし、破壊しつくした世界を、この曲は歌っているようにも聴き取れます。
  その暗部をより克明にグロテスクに描いたのは、彼の第八交響曲なんでしょうが、
  戦争の悲しみや苦しみを、切々と美しいまでに純化した音楽は、
  この楽曲をおいて他に無いと言い切ります。
  
  その美しさの極致とも云えるのが、第3楽章「アダージョ」。
  木管群とホルンによる冒頭の響きは、
  パイプオルガンを思わせるような荘厳な美しさがあります。
  また、そこから続く弦楽器の歌は、チャイコの弦セレ以上の衝動を感じるんですが、
  あまり有名になら無いのが不思議です。
  自分だけが知っている美しい花、そんな可憐さがあります。
  
  そして、フルートによる、美しい小鳥が大空を舞うかのような空想が始まります。
  私はこのフルート二重奏が、一番好きです。
  交響曲で、フルートをここまで美しく活用しえた音楽は、珍しいと思います。
  ブラームスの歌わせ方とかとはまた違って、
  文学性を伴なわない自然世界に根付いた美しさとでも言いましょうか。
  
  弦がしなやかに戻ってきて、涙に濡れた悲しみを表出します。
  しかしその悲しみはやり場の無い怒りに変わって行き、悲しみが怒りを、
  怒りは怒りを呼ぶだけで、最後は空しさとやるせなさが残る。
  失った大切な人を返して欲しい、そんな願いが伝わってきます。
  戦争という愚かな行為の本質を、見事に音楽という哲学に変えて、
  この曲は出来上がっています。
  
  冒頭で「ヤンソンスは大したこと無い事は分かった上で」と申し上げたのは、
  近年の彼の不甲斐ない演奏を残念に思っているからです。
  特にピッツバーグ交響楽団との相性は最悪で、
  奇縁にもロンドンのプロムスで聴いたケバケバしい金管全面演奏は最低でした。
  私の中では、ヤンソンスの成長を楽しみにしていただけに、
  裏切られたような気持ちにもなり、今の彼には興味が無い。
  ただ、レニングラード・フィルとの演奏であるこの盤は彼の
  最も輝いていた頃の美質が最善に出ている。
  
  
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