(隊長作)

4月24日(日)  14:00   - 79 -   訪問者数

    スクロヴァチェフスキー指揮   読売日響   東京芸術劇場
  
    プロコフィエフ  「ロメオとジュリエット」第2組曲
    バルトーク    管弦楽のための協奏曲
  
  ueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueueue
  芸劇

春のスクロヴァチェフスキー第2弾。

このあと4月30日の「田園」&「タコ5」も
聴いていますので、4月は
至福のスクロヴァ月間でした。
  

  スクロヴァはマニアの間では大変な評価なんですが、
  弊紙読者の皆様にとっては如何なんですか?

  昨夜ネットで、在京オケの指揮者云々の掲示板を読んでると、
  N響のゲルギエフやサヴァリッシュやプレヴィンの演奏がどうのこうのと
  盛り上がってたんですが、どんな演奏だったか私は今じゃぁ忘れてしまってます。
  
  プログラム的にはかなり読響贔屓な私ですが、
  流石に指揮者の統率力のお陰といっても、
  これほどの凄演を聴かしてもらったら読響の地力にも感心せざるを得ない。   (隊長作)

まぁ、そんな幸運な演奏会でした。
  
  天邪鬼な私は、隙あらばスクロヴァも耄碌し始めた!
  なんて感想が書きたいので、心斜めから音楽に対してたんですが、
  どうにも文句のつけようが無いなと感じずにいられなかった。

  そこでちょっと楽曲について。
  
  前半はプロコのロメジュリなんだけど、第2組曲のみを選択したってとこが   (隊長作)

不満。
  ロメジュリは第3組曲までありまして、スクロヴァ氏は全3組曲を
  収録したCD(デノンCREST1000シリーズよりたったの千円で販売中)を
  出しているのに、敢えて第2組曲のみを選択。
  これ如何?
  
  「ロメジュリ」の聴き所は数々あれど、オーケストラの能力と指揮者の腕の見せ所が
  最も冴え渡るのは、第1組曲の「タイボルトの死」だと思うんですね。
  あの、ティンパニと大太鼓が合わせて、
  「どん!どん!どん!どん!...」とやるヤツです。
  
  もっとも第2組曲も冒頭が不協和音大絶叫ではじまる有名なナンバー、
  その後に続くモンターギュ家とキャピュレット家の軋むような
  軋轢の音楽も絶品なのですが、私としてはバレエ音楽本体からの
  抜粋版(いいとこ採り版)にして欲しかったな。
  スクロヴァは若き日より作曲をしており、小品群の再構成なんて
  お手のもんだと思うんですけど。
  
  また、この組曲って構成が全然好きじゃない。
  せっかく音楽に勢いと流れが漲り始めているのに、5分前後で
  「はい、一息」。
  ポップスなんかに慣れていたころは5分以上の楽曲なんて永すぎたけど、
  マーラーやワーグナーに慣れた今では、二十分くらいはブッ通しで
  突っ走って欲しい。
  朗々と休み無く続く「ロメジュリ」編曲版が、現れないものか。
  自称作曲家ロリン・マゼールあたりを煽(おだ)てりゃ、やってくれるかもしれん。
  (隊長作)

さて、今日の本題は意外にバルトーク。
  この日の2曲でも、私のプロコ好き度が百点だとしたら、
  バルトーク好き度は零点というくらい、バルトークは性に合わない。

  これには私なりのジメジメした想いが絡んでるんです。
  
  大学オケ時代、属している経済圏の大学有志が集結してスーパー学生オケ
  みたいなものを毎年催していた。
  私も三回生の時は意気込んでいて、参加する予定だった。
  ところがその年の演目がバルトークのオケコン(オーケストラの為のコン
  チェルト=管弦楽のための協奏曲)と決まった。   (隊長作)

バルトークはショスタコーヴィチもしくはその楽曲が嫌いだったそうで、
このオケコンを作曲当時、ラジオからショスタコの交響曲第7番
  「レニングラード」が流れ出したという。
  現在ではレニングラード第1楽章のボレロは、ナチスの行進を顕している
  と云われているが、バルトークにとってみればナチスもソ連も似たようなもんだったのだろう。
  ソ連はナチスを批判しているが、我々中欧に対するソ連もナチスと同等ではないか!
  と。
  
  オケコンの第4楽章「中断された間奏曲」では、間奏部分にこの
  レニングラードの馬鹿げたデフォルメが現れる。
  しかも自分の美しい音楽(ハンガリーを顕しているのかな?)に、
  無神経にズカズカと土足で踏み込んでくるような音楽として。   (隊長作)

バルトークは相当、ショスタコを嫌っています(と感じる)。

  そんな予備知識があったためオケコンへの気持ちは最悪で、
  楽しみにしていたオケ参加も断念したのであった。
  政治的にはバルトークに同情するけれど、音楽的にはショスタコを溺愛していた私に
  とっては、ブラームスに対するブルックナーのような構図を描いてしまったのだ。
  
  その前年の演奏曲がマーラーの第6番であっただけに、どうして自分の出演時期に
  限ってこないな演目になったんや!とますますオケコンが嫌いになったんですねぇ。
  これを逆恨みといいます。
  そんなしこりもあって、オケコンの楽曲については変に聴き込んでいる私なんですが、
  感情的には「好きくない」一曲である訳です(こういう曲が私には多いです)。
  
  ところで指揮者スクロヴァチェフスキーは、作曲家としてもいまだに活動中でして、
  今冬の読響演奏会では自作の「オケコン」を引っ提げて来日するそうである。
  「なるほど!自分が作曲している楽曲だから、その先例としてバルトークの
  同曲を研究・採択したのか。ということは、相当この曲を調べ抜いているはず。」
  
  私もお恥ずかしながら、昔、弦楽四重奏曲を書いた時に、ベートーヴェンの
  後期やプロコフィエフの2曲を相当入れ込んで研究(参考かな?)したものです。
  冬の演奏を聴かないと、スクロヴァがどれほどバルトークに影響されているのかは
  判別できないのですが、研究しまくったのであろう事は一聴して即断できました。
  
  オケコンの録音は数々あれど、今回の演奏がCD化されれば圧倒的な名盤と
  なる事間違いない演奏でした。
  これはオケコン・ファンが前向きに聴いた感想ではなく、
  オケコン嫌いが後ろ向きに聴いてさへ抱いた感想である事をお忘れなく。
  
  オケコンはあらゆる楽器が当意即妙にソロやソリ、あるときはデュエットや
  トリオなどに変転自在に遊び戯れる趣があるのですが、
  各楽器がクリアに見晴らしの効いた演奏であると美しい。
  それでなくとも薄めのオーケストレィションなので、全楽員に完璧な演奏と
  合奏力が求められるのだが、そんなレベルは当たり前。
  そこから先の世界を開陳してくれる演奏だった。
  
  正直私には魅力の乏しい楽曲で、鳥肌が立った演奏は生まれて初めてかもしれない。
  大好きな指揮者とお気に入りの楽団が、これまた大好きな楽曲を演奏してくれた
  名演だったのでは無い、という状況が伝えたくて永長と書いてしまいました。
  結局良かった、と言いたいだけなんだけど、そんなもんじゃ言い切れない
  大名演であったわけです。
  
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