(隊長作)

1月7日(土)  15:00   - 107 -    訪問者数

    大野和士指揮   新日本フィル  すみだトリフォニー

    江村哲二       地平線のクオリア2
    ショスタコーヴィチ  ピアノ協奏曲第1番
    ショスタコーヴィチ  交響曲第4番

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今年初の聴き初めは、ショスタコーヴィチ。
しかも第4番と云うのですから、縁起がいい。
そう思うのは我々だけ?

曲もいいのですが、期待できるのが指揮者大野さん。
彼がベルギー・モネ劇場へ行ってからは、
そうそう聴けなくなっただけに、
ありがたく成長振りを楽しみましょう。

それと、オケ、新日本フィル。

  あまり好きなオケでは無いんですけど、弊紙メルマガ始まって以来の
  初登場。
  
  前プロの現代音楽は、特に感想無し。
  予備知識なしで聴いたら、武満徹っぽく聴こえるかな。
  それと、題名のネーミング。
  「地平線のクオリア」って何?なんて思わない。
  別にどうでもいいなぁ、という気持ちしかわかず、そこから聴いてみたい、
  という気持ちに繋がらない。
  この曲は「2」であるから、「1」もあるワケなんだけど、「1」を
  聴いてみたいと思った人がどれほどいたのかな?
  
  お次はショスタコのピアノ協奏曲なんですが、当日体調の優れなかった私は、
  不覚にもうたた寝してしまった。
  私としては、うたた寝してしまう程度の演奏だったと言いたいのですが、   (隊長作)

隊長は「なかなか佳い演奏だった」と言って譲らず。
  ピアニストが優れていたそうで、マケドニア出身らしい。
  シモン・トルプチェスキと云う方だそうです。
  
  この曲はピアノと並ぶくらいトランペットが活躍するのですが、
  コンサート開始直前まで、舞台裏よりペットの練習が必至に繰り返されていたので、
  今日の演奏は大丈夫だろうか、と不安になったが、
  大丈夫だった(そうだ)。
  なんせ寝ちまったんだから、大変失礼な話である。
  
  うたた寝も済まして、すっかり目が冷めた私。
  ホワイエでコーヒーやサンドイッチを摘まみ、本日最大の楽しみに挑む。   (隊長作)

私的にはショスタコの最も聴きたい曲ってのが、この第4番。
  今年はモーツァルト・イヤーだそうで、非常にやばい雰囲気で充満してるんですが、
  ショスタコだって生誕百周年という大イヤーでもあるわけです。
  
  ですけど、ちっともそんな空気は無い。
  モーツァルトとかぶると、ベートーヴェンくらいしか勝てない気がするんですが、
  ショスタコも運の悪い人です。
  
  だけど、新年早々、そんなショスタコを慮って、しかも第4番を取り上げようとしている
  大野氏と新日本フィルには敬意を感じます。
  ただし敬意を感じるのと、演奏の評価は別問題。
  
  この曲は支離滅裂で、音楽をやりたい放題に書き散らした大傑作だと
  私は思うんですが、そんな傑作にはハチャメチャな演奏こそがピシリと嵌る。
  
  そう思うんですが、大野氏の解釈は大きく異なり、冷静沈着・理知的理論的で、
  しっかり堅実に演奏は進んでゆく。   (隊長作)

面白くない。
  
  楽曲自体がグロテスクで面白いから、聴くに耐えないという程では無いけれど。
  そうそう、言い例え話を思いついた。
  私は剣豪小説が好きなんだけど、あれって考えたら凄い話なんだよね。
  だって真剣で斬りあう、つまり殺戮しあうワケです。
  命と命を懸けて、おのれの編み出した必殺剣法というワザを競い合う。
  
  そこにカタルシスを感じるんですが、これをスポーツ化したのが剣道。
  竹刀でもって、技と技を競い合う。
  もちろん命も削らんばかりに、切磋琢磨した命も削らんばかりの闘いです。
  
  でもどちらかが必ず倒れる、死ぬという結末は必要でない。
  
  このショスタコの第4番とは、そういった曲なのですね。
  作曲当時のショスタコはジダーノフ批判に曝されて、もう後がなかった。
  
  今度ヘマをしたら、いいとこシベリア送り、悪くしたら銃殺刑かもしれない。
  そんな状況で書き上げたのが第4番。
  もう命知らずも甚だしい。
  
  そこへ彼にどんなドラマがあったかは判りませんが、彼はスコアとパート譜を
  全て自らの手で回収します。
  相当な屈辱と敗北を感じたことだろうと思います。
  自分の思いの様をぶちまけた音楽なのに、それを本当にホールでぶちまけたら
  殺されてしまうかもしれないんですから。
  そして、死を恐れるあまりに、自分の音楽を表現することを諦めた。
  彼の音楽は、死という恐怖に負けた訳です。
  悔しかっただろうなぁ。
  
  そんな第4番なわけですから、もう真剣試合でなきゃいけないんです。
  これは芸術とか音楽とかじゃなく、闘争試合みたいなもんです。
  そういった解釈では全然なかった。
  もうこれは指揮者の考え方であって、どうしようもないわけですが、
  大野氏はこんなものか、という残念な寂しい気分になったのです。
  
  この曲を「剣術」と考えるか、「剣道」と考えるかで、全く異なった演奏が出てくると思うんです。
  楽譜を忠実に再現しているだけでは、この曲は表現し切れてないと思うんです。
  
  
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