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コンサート感想


2012年2月6日(土)19:00 東京オペラシティコンサートホール
読売日本交響楽団 / 沼尻竜典指揮
オール・ストラヴィンスキー・プログラム
 火の鳥(1919)
 ペトルーシュカ(1947)
 春の祭典

(隊長作)



久々に、読響を聴いた。2010年2月以来だから、実に2年ぶりの読響となる。
あれほどまでよく聴きに行った読響を、なぜ2年も聴かなくなったのか。
それはひとえに、読響プログラムが保守ったから。

読響プログラム・メンバー内でどんな暗闘があったのか知る由も無いが、
2年間聴きに行く気にさせないプログラムの連続だった。スクロヴァもいるし、
ロジェヴェンも来るけど、やっぱり私は選曲重視だ。

興味を持てない楽曲でも指揮者が好きだから、という理由では、
聴きに行かない。ラシライネンが来日したら、聴きに行きたいけど。
(隊長作)

それほど読響を無視してきたのに、ストラヴィンスキー3部作で
2年振りの読響となった。私はそれほどストラヴィンスキーに興味はない、
でも、オール・ストラヴィンスキーという趣向が面白がった。

また、都民芸術フェスティバル参加公演のため、
C席1,800円という安さに惹かれた。

芸術において、カネのことを言うのは野暮だと思う人は多いが、
芸術と対価の関係は実に重要じゃなかろうか。
3万円のコンサートなら3千円コンサートの十倍の感動が必要だし、
千円コンサートで大感激できれば三十倍のCPを得られたとも考えられる。

芸術をカネに換算して何が悪い、そうやって芸術は古代から
脈々と育ってきたのだし生きながらえてきた。
良いと思った愛好家がカネを出して初めて芸術で
喰っていけるアーチストが生まれる。

それだけに、3万円のチケット代を誇るアーチストも、
それに見合わない演奏を重ねてゆけば、3万円チケットは
馬鹿にされてゆく。ホロヴィッツの骨董品は余りに有名な話だ。



ストラヴィンスキーは学生時代少しはまって、新古典主義に
傾倒していった心理に興味を持った。特にプルチネッラみたいな音楽に
変貌していった軌跡が面白く、原点でもありその対極でもあるハルサイは
ナマで聴くほど感興が湧く。

ロシアの作曲家ながら、パリの香りが強い曲を書いた。
フランス風に振るか、ロシア色を押し出すか、演奏が分かれるところだが、
さすが難曲ということもあり、沼尻はリズムをくっきり取ったドイツ風演奏だった。
よって、ストラヴィンスキーならではの色気や官能性は乏しかったが、
堂々たる鳴りっぷりは愉しめた。

ストラヴィンスキー尽くしに興味を持ち、コスパに浮かれ
コンサートに出掛けたが、この演奏会で最大の収穫は指揮者だった。
沼尻には興味も関心もなかったが、いつ観ても楽しいハルサイ・ライブを
じっくりと聴くと、指揮が凄くいいなと感心した。分かり易い指揮振り。
濁点が明確で、切れがある。

テンポの振幅はまだまだ甘いし、後半はかなりバテたが、
この蛮族の大音量をかなり成功させた。そう感じたのは私だけでは
なかったようで、終演後、多くの聴衆がいつまでも拍手を惜しまなかった。
ブラヴォーもよく出たし、まったくその通りだと思った。
こんなに暖かな声援と拍手がいつまでも続く演奏会は、久しぶりだった。



ハルサイはパリ初演の往時を想像しながら聴くと、より一層興奮する。

自分がパリ初演にタイムスリップして聴いていると、仮想して聴くのだ。
和声や調性を厳格に信奉する老人や、甘い旋律を求める貴婦人に
挟まれて1913年(丁度百年前!)のシャンゼリゼ劇場で聴いていると
想像してみよう、どんなに面白いだろう。

天井桟敷からは罵声や口笛が飛び、老人は足音を荒げながら演奏途中で
席を蹴飛ばしてゆく。でも、そんな時代にも「この曲は面白いぞ!?」
と本能的にワクワクして聴いていた人もいたはずだ。

惜しむべきはストラヴィンスキー、結局ハルサイ以上の名作を
成しえなかったこと。大器晩成で老熟して交響曲第9番に
昇華する作曲家もいるけど、若くして革新を成し遂げながら
その後何を残したんだろうと考えてしまう作曲家もいる。
代表例はベルリオーズ、ホルスト、そしてこのストラヴィンスキー。

書いても書いても、ハルサイ以上のモノを書けていないことを、
本人が一番感じていたことだろうし、その苦衷たるや察して
あまりあるものがある。ハルサイを聴いていると、
いつもそんなことを考えてしまう。



(隊長作)

過去のコンサート感想。

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