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コンサート感想


2012年2月18日(日)15:00 NHKホール
NHK交響楽団 / ノセダ指揮
 チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第1番
 カセルラ : 交響曲第2番(日本初演)

(隊長作)



うちの隊長は、大の麺党である。
一方私は丼派で、食事の度に些細なせめぎ合いになる。

麺の種類は多く、ラーメン、うどん、そば、パスタと和洋中なんでもある。
丼だって負けてはいない。天丼、牛丼、カツ丼、親子丼・・・。
それにしても、和食が多いことに気付く。
天津飯やリゾットも丼とは云えるが、私はカツ丼が好きなのだ。

そんなカツ丼派の私だが、最近、ラーメンがなかなか旨い。
京都のラーメンは、こってり過ぎた。
東海地方は、魚介系ダシが濃厚過ぎた。
東京の中華ソバ(醤油味)は、あっさり過ぎた。

(隊長作)

そんな思い込みもあったのだが、高田馬場の塩ラーメンで開眼し、
ラーメンって旨いなと見聞を広める気になった。

馬場から西の小路をちょっと歩けば「道玄」があり、
ここの塩ラーメンは何度食べても旨い。

今まで「塩」ラーメンというネーミングに「塩分取り過ぎ」と感じ、
敬遠していたが、これほど旨いとは知らなかった。
近所にこの店があったら体がもたないだろう。

スープは少ししか飲まないように気をつけているが、
ここのスープだけは止める事ができない。
それほど旨く、また、何度も行ってしまう。

そんなラーメン初心者が、その日も「道玄」を堪能し原宿下車で、
NHKホールに向かった時のこと。代々木公園からの信号を渡ると、NHK
ホールに至る「代々木公園けやき並木」がある。

この通りには普段、屋台が並んで焼きソバやたこ焼きを
売っているが、土日はフェスティバルを開いていることが多い。

環境フェスもあれば、アジアン・フェスもある。
調べておけばN響定演の日に何のフェスをやっているか判ったのだろうが、
それほど関心も無いので、この日もNHKホールへ急いだ。

すると、どうだろう。
何とこの日は「ラーメン・フェスティバル」をやっていたのだ。



正式名称は定かでないが、とにかく、ラーメンの屋台がずらりと並び、
全国各地のご当地ラーメンが食べられたのだ!
なんたる不覚。

ついさっき、馬場で塩ラーメンを心行くまで、スープまで
全部呑んで腹はタプンタプン。
せっかくラーメンに関心が出て来てるだけに、
悔しくて哀しくて大いに憤った。

そんな不愉快極まる心境で、その日のN響定演は始まった。

まず、前半のチャイコPコン。
全くの論外、何一つ憶えていない。
当時の覚書には「低音ドゴン、ドゴン」と、ピアニスト:マツーエフの特徴を
好意的に書いているが、私のクラシック鑑賞体験に、この日のチャイコは
残ることは無いだろう。

それよりも、この日の大目玉はカセルラ(もしくはカゼッラ)。
イタリアの若き青年が、マーラー第2番「復活」に感化され、厨二病よろしく
思いっきり恥ずかしい交響曲を書いてしまった。

いやぁ、聴いていてコッチが恥ずかしくなるような思春期ど真ん中
みたいな交響曲。

フランスはパリ音楽院で6年も学んだとは思えないような田舎くさい旋律。
マーラーの最も恥ずかしいエッセンスを敢えて煮汁にしたような田舎踊りが、
カセルラは「これだ!」と感じてしまったのでしょう。
その最たる特徴的な箇所が、第1楽章冒頭。

むかし、私が高校生だった頃、私も作曲家に憧れた。
交響曲を書くなら、何は無くともまずは「冒頭のつかみだ!」と思ったものだ。
単純でもいい、腕白な旋律ならツカミはオッケイ。
3つか4つの音符をトリッキーなリズムにどう当て嵌めるか。
まずは冒頭が重要だ、と思ったものだ。

しかし、しばらくして、マーラーの交響曲に耽溺するようになると、
パンパカパーンといった冒頭は恥ずかしく思うようになった。



マーラーの第3番や第5番は、何度も聴いてしまうと、ちょっと、どうか。
それより第1番や第9番のような深遠な冒頭の方が味があるのでは。
交響曲と言ったって、様々な出だしがあるのだな、と思う様になっていった。

そんな若き自分を思い出すような冒頭が、カセルラ第2番にはある。
深遠なる闇の彼方から小さいが強い光が、チューブラーベルの響きで表現される。
まさに大交響曲の始まりだ。

これを聴いて、マーラーを連想しない人はいないだろう。
しかし問題はその次だ。
せっかく「かっちょいい」冒頭は出来たのに、神秘的世界は長続きさせず、
すぐ「カセルラが格好良いと思ってる激しい動機が始まってしまう。

だが、若きカセルラを笑ってはいけない。
笑うのは簡単であって、実際それを何百枚もの楽譜にまで仕上げた彼は
現代日本で演奏までされているのだから。

指揮者ヴェッキアのCDを聴き込んで演奏会に臨んだのだが、
実演もCDどおり淀みある演奏だった。

ヴェッキアの指揮が拙いのだろうと思っていたが、
流麗なノセダ&N響演奏でも淀む所は淀んでいた。
カセルラの楽譜そのものが、淀んでいるのだろう。
そんなチグハグなストーリーも青年の葛藤の傷跡のようで、
痛ましくもあり愛おしい。

激しい動機が爆発した後は、マーラーやリヒャルトにありがちな
ムンムンするような「歌」が熱く続く。一気呵成に突進しないとダサく
なりそうだが、一段落したら、冒頭のチューブラーベルが再現される。

このシーンの方が幽玄で格好いいだけに、カセルラは効果的に
挟み込んでくるが、どうしても静寂の後は爆発に持って行きたがる
青臭さがある。静かで厳かなシーンの方が可能性を感じられるだけに、
自分の好きなことと向いていることが違うことに気づいていないのが惜しい。
ちなみにN響の演奏は、大活躍する打楽器と俊敏さが求められる管弦の
各パートとのズレが気になった。



第2楽章の行進曲風がショスタコを先取りしている。
1908〜09年の作曲なので、ショスタコ(1906年誕生)以前の作品だ。
前へ前へという細かなパッセージをドンチャンやらかしながら進んでゆく手法は、
まさにタコヴィッチの真骨頂であり、ショスタコこそどこかでカセルラの音楽に
触れた危険性がある。

絶頂まで坂道を登ったあと、裏返って展開(弦がトゥッティで騎士風の旋律で
巻き返す)する様は正にショスタコで、タコ好き初心者はきっと興奮するだろう。

つまらない第3楽章が終わると本曲最大の笑い、第4楽章となるのだが、
「マーラーの初期習作が発見された」と言われると信じるしかないような面白さ。

いくらマーラーの若書きとは言え、ここまでダサい作品を書けるか?
いな、ダサ過ぎたゆえにお蔵入りにしたんだな。
それが大学図書館の地下室から発見されたんだな、なあんて
夢想してしまう程の出来栄え。

ラストはマーラー交響曲第3番終盤のような大海にたゆたう様な壮大な音楽。
弦が朗々と歌い続けるのですが、どこかデジャブ感が消えない。

しかし弦だけで終われないのが若さの象徴。
耳が痛くなる様な大音響の大団円に至り、ホール全体が音だけで埋め尽くされる。
だけど、虚しさが残るのは、何故だ。

主題提示は良いが、その展開と変奏にこそ音楽の面白さがあることを
彼は気付いていない。つまらん主題ながら、展開と変奏で神業を
披露したブラームスと対照的な作曲能力だ。

1883年に生まれ、1908〜09年に作曲したということは、25〜26歳の若書き。
カセルラは63歳没なので、このあと交響曲第9番まで作曲したとしても
不思議でない。しかし、彼は交響曲第3番までしか残さず、彼の作曲能力が
どのように変遷したのか、同一構造で比較できるものが無い。



(隊長作)

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