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コンサート感想


2010年8月14日(土)14:30  京都コンサートホール
京都市交響楽団 / 秋山和慶 指揮
 佐村河内守(さむらごうち まもる): 交響曲第1番「HIROSHIMA」

(隊長作)


コンサートに行った順に、時系列で感想文をお送りしてるんですが、
今回は特別レポート。

出来るだけ早急にこの思いを伝えねばと思い、
大幅な順番抜かしで本編をお送りします。

日経新聞社会面(裏面トップ)や、佐村河内守著「交響曲第1番」(講談社)
で既に知ってるアンテナ高き人もいらっしゃる事でしょう。
今回は、全3楽章完全版初演レポートです。


京都は先月7月にも行ったばかりですが、さすがお盆、京の夏は蒸し暑過ぎる。
この日は昼過ぎに通り雨があったのですが、ちっとも涼しくならぬ。
京の夏、恐るべし。

各所で外国人観光客を見かける、「蒸し暑過ぎる京都はどうですか?」と
尋ねてみたい。ジリジリと鳴く蝉、鬱蒼たる寺院の杜、浴衣姿に団扇の男女を
見るのに、蒸し暑い盆地だからこそ京都に来てるんだなぁと感じるのかもしれない。


あまりに蒸し暑いので、コンサートホール1階にあるレストランに
入ってみた。しかし考える事は皆同じなようで、行列待ちでした。
独占経営状態のホールレストランの味を一度は確認しておきたかった
のですが、行列待ちまでして食べたくない。
行列に並ぶのは、嫌いなんです。

そこでホールを出て北山駅界隈で物色したんですが、どうにも暑くて
かなわない。目に留まったラーメン屋「金ちゃんラーメン」に逃げ込む。

ここは北山駅交差点の北西角ロイヤルホストの北。
ラーメン、中華そばと大書してあるので直ぐ見つかるでしょう。
京都に犇めき合うラーメン店の一つとして、一度は食べておきたいじゃないですか。


ちなみに店頭の大提灯に、「元祖から揚げ」と銘打ってある。
これは唐揚を食べとかんとあかんでしょう。


店内は外観と似合わず広く、店員さんが大忙し。
ラーメンは京都系ラーメンにありがちな濃厚系。
来来亭ほど油っこくなく、横綱ほど深みもない。まぁまぁです。

しかし「元祖から揚げ」と言うだけあって、醤油とニンニクの効いた唐揚は旨い。
ラーメン屋に行って唐揚を主眼とするのは変だけど、唐揚喰いたいなぁと
いう時は良いかも。旨い唐揚を味わいつつ、ラーメンを喰う。
総合的には「旨かったなぁ」となったので満足。



さてさて、今回はラーメン話ではなく、佐村河内(さむらごうち)。
これを語りたくて、書いていたんです。
まずは編成、三管編成の重量級。
ただしホルン8本を横一列に並べ、視覚的にも圧倒的な存在感で圧する。
ハープ、チェレスタ、銅鑼、鐘2種など揃えるあたりはマーラー風。
この程度の編成なら、意欲的なアマオケなら演奏可能ではないでしょうか。

今回聴き終わって考えた事は、「これはアマオケでも出来るんじゃない?
アマオケが全国各地で再演しだしたら、この音楽の凄さは全国に伝播する
のではないか?」ということ。

放送局らしき取材班も来ていたし、日本コロンビアの祝花も飾って
あったので、うまくいけばこの初演はCD化されるんじゃないかと思う。
ただし、この音楽はCDでは納まり切れない大きさがある。
しかし今から、CD化されていない音楽について、熱く語ろうとしている。

読者諸兄に、イマイチ私の力説は伝わらないだろう。
ネットで調べれば、いろいろ概要は知れるんでしょうが、あくまで
概要であって実演の弩迫力はそんなもんじゃない。
私も実演に接するまでは、これほど巨大な音楽と想像してませんでした。


本曲は全3楽章であり、過去第1・3楽章という不完全状態で
広島や東京で演奏されたそうです。

被爆二世、成人後全聾になった作曲家による大交響曲という宣伝文句が
なくても、この楽曲ならいずれ世に登場していたでしょう。しかし
全3楽章70分余という大曲初演は、瀕死の状態の現代音楽界では
夢のような企画だったろう。

原爆投下候補都市だった京都ならではの快挙義挙であり、こういった実現を
成してしまえる革新性こそやっぱり京都は日本一の文化都市だと誇りに
思ってしまう。京都出身者として、ほんま鼻高々です。

少し前、ディスクユニオンで佐村河内守著「交響曲第1番」という
ハードカバーが飾られており、随分ご大層なもん売っとるなと思ったものです。
CDが出たら買ってみるかと思ったのは、多くの音楽ファンもご同様でしょう。

しかしその後、日経新聞社会面で、同曲完全版の京都初演計画の記事を読む。
しかも演奏会は土曜日。これには、京都に駆け付けられる範囲に住んでいる自分が
行かなくてどうする!と興奮したもんです。

早速隊長に連絡しチケット取りに動いて貰ったんですが、
あの時の隊長の気乗り薄ば態度と言ったら!
必死になって、いかにこの初演が大化けしそうな演奏会か説明したもんです。
A席4千円というのも、我々にとっては大きな出費でしたしね。

我々は秘曲マニアといった傾向もありまして、過去何度も秘曲CDを
買っては後悔しています。数十枚の秘曲CDを買っても、1枚当たれば良い方。

ほとんどの秘曲は、秘曲のまま終わってるのが納得できるだけ、
秘曲に甘んじているだけの理由があるのです。
だから今回、この交響曲の産まれたあまりに悲惨な経緯を考えると、
「楽曲そのもの」は果たしてどれほどなのか?と不安に思う気持ちが
正直ありました。


70分余の大曲を聴き終えて、感じたことを思いつくままに書いてみる。
作曲家は本曲を「交響曲第1番」としているが、それまでの
「十二の交響曲」は破棄しているそうな。

と言うことは、本曲は実質第13番であり、第13番として聴くならどんなもんだろう。

しかし待てよ、メンデルスゾーンは弦楽交響曲を12曲書いた後、
交響曲第1番に辿り着いているぞ。ブルックナーも第1番を書くまでに
ゼロ番やダブルオー(ゼロゼロ番)他も書いていたな。

あのマーラーだって、聴いたところによると第1番より前に習作が4曲も
あったとかなかったとか。モーツァルトに至っては、名曲第25番に至るまでに
24曲も書いているわけだし・・・。
そう考えると、ショスタコの第1番は凄いんだけど・・・。

しかし、作曲家が今までの大切な作品群を横にどかし、これこそ自分の
第一歩、第1番だと改めて世に問うた意気に、居ずまいを正してしまう。

佐村河内氏は1963年生まれ、現在47歳。
第1番を世に出すには少し遅いが、これほど凄まじいパワーを持った交響曲を
産み出せたのだから、この人はホンモノの日本人交響曲作曲家になるかもしれない。

日本人の多くが待ち望んでる「真の日本人交響曲作曲家」がやっと
誕生する始まりに立ち会えているのかもしれない。
この人が我々と歩きながら、数年に一曲のペースで交響曲を
創り続けてくれたなら、彼の第九を聴けれるかもしれない。

これほどの第1番なら、彼の第九は日本人が羨ましくてしょうがない、
あの「第九」が日本から産まれ出づるかもしれない。
しかも、楽聖と引けを取らない音楽として、誕生するかも知れない。

実際、今回の初演や東京・広島の一部初演を聴かれた方は、
私の感想を「夢物語」なんて思わないだろう。

また、今回の初演さへ知らなかったクラシックファンは悔しくて
しょうがないだろうけど、これは誇張して書いている世迷言でもないのだ。
もし彼が二十歳過ぎの若者で、これが初めて書いた交響曲だったとしたら、
一発屋で終わるかもしれない。

なぜならベルリオーズの恐ろしいジンクスを思い出してしまうから。
ビゼーやルクーやシューベルトのように、若すぎる天才は早く
消えてしまったジンクスがあるから。

しかし彼の第1番は実質第13番とも言えるわけだし、13曲も交響曲を
突き詰めてきた結果、確固たる世界を構築できた訳だから、あとは
どこまで彼の道が続いていくかに懸かっているのではないだろうか。

また、これほど意思の貫けた音楽を書ける人なら、私は彼に夢を望んで
みたいのだ。この人だったら、恐ろしいまでの第九を書いてしまえるんじゃ
ないだろうか、と。

彼の交響曲第1番とはどんな音楽か、気になりますよね?
その前に、京都市響&秋山指揮の大健闘を讃えたい。
こういった曰く付きの初演なんだから、奮起奮闘することは当然予想していたが、
ここまでやってしまうとは人間の持つ力はどこまでも無限だと思った。

今後京響を聴く時は、きっとこの演奏を思い出して比較してしまいそうで
怖い。だって今回ほどの演奏は、ちょっとやそっとでは無理でしょうから。

渾身の思いを音符に託した作曲家を前にして、死に物狂いに演奏しなかったら
音楽家じゃないですよね。もう本当に、あの演奏姿勢を見て聴けれただけでも
体が震えるばかりなのに、そこから迸る音楽が生命のように鳴り響くさまは
もう言葉では表現できない。

(隊長作)

現代作曲家による音楽ときくと、ついゲンダイオンガクを想像してしまう
でしょう。あくまで想像してもらうために敢えて例えるなら、響きや全体の
雰囲気はマーラーやブルックナーの延長線上にあると思ってもらいたい。
決してタケミツとかシェーンベルクの延長ではない「音楽」。
これを敢えて現代に叩き付けた事をどう受け留めるかは人それぞれ、
私は手放しで受け入れたい。

今こそ、こういった心に届いてくる音楽を書く人がいて、本当に嬉しい。

しかしマーラーと違う点もある。
マーラーの恐ろしいところは、喜怒哀楽や起承転結のすべてがメロディから
成り立ち、その流れは一片の淀みもない。

しかし佐村河内氏の音楽は感情や情念が全面に出た音楽となっているので、
ものすごい圧し掛かるものがあり、音楽から想像してしまう作曲家の気持ちを
なぞってしまうと、もう胸が張り裂けんばかりに同化して身も心も
散りじりになってしまう。

一方冷静に音楽を分析したいと思うもう一人の自分がいて、
必死に冷静になって聴こうとする。
そこから聴き取れるのは、彼の弦楽演奏の美しさだ。

フルオーケストラでの感情の爆発に次ぐ爆発を顕した後に訪れる悲しみや怒り、
それを弦楽器が奏するのだが、この美しさは、日本がようやく待ち望んだ
交響曲の歴史が始まった喜びに繋がる。

いや、この音楽を「日本の交響曲」スタートだと小さな視点で
考えることは浅墓なのかもしれない。全世界に、全人類が待ち望んでいた音楽が、
今ようやく世界に伝わり始めている瞬間なのかもしれない。

第1楽章からは「怒り」を感じ、第2楽章からは「悲しみ」を感じ、
終楽章からは希望というより「祈り」を感じた。
たしかに第2楽章なしに終楽章へ昇華するのは不可思議であり、
ベートーヴェンの第九も前3楽章があってこそ合唱が映えるのであり、
マーラー第九も第3楽章のあとの終楽章が美しく響くようなもの。
全3楽章完全版でこそ、初めてこの曲の真価が表現できたと思う。


さて、このまま初演だけで終わらせることはありえない。
CDが出たら是非確認して欲しいが、これは絶対ライブ映えする楽曲だし、
こういったものこそ世の中に広める音楽だと思う。

70分という現代曲がどれだけ著作権料が懸かるか不安だが、少し高めの
入場料でも演奏会の意義に賛同してくれる人は意外と多いとも思う。
在京在阪のプロオケは勿論の事、広島の大学オケを始め、
全国のアマオケは今こそ立ち上がる時が来たのではないか?

技術的には、客席で聴いた限りではあるが、リヒャルト・シュトラウスや
プロコフィエフのような超絶技巧は要さないと思う。
しかしこの曲が持つパワーが、かなりの不可能を可能にしてしまうとも
思えるんだが、いかが?

もしかすると意外と早く、海外のオケが先に採り上げるかも知れない。
それはそれで万々歳なのだが、せっかく最近のアマオケは無茶なプログラムも
敢行してきてんだから、ここはいっちょウチラがやってみるかといった所が
現れてくれないかな。

彼の第2番、第3番という花がどんどん咲いて、新しい真の現代に生きる
音楽が現れてくる予感がしませんか?
また、彼の音楽から影響を受ける人達も多くなるだろう。
その輪は、素晴らしい世界のきっかけになるとしたら、
どんなにワクワクした未来が待っているんだろうね?

(隊長作)
 

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